仮パパ育日記

小学校教師だった私が病気で退職して、なんやかんやあって両親がいない男の子を育てることになった話。Twitter始めました。@iFz1Vm7GXcQeykf

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仮パパ育日記 りっすんブログコンテスト2019年

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迷って、決断して、できた「仮パパ育日記」

きっと長くなるここまでの軌跡
要約すると、
→教師になるために猛勉強した大学時代
→大学卒業してすぐ小学校講師になる
→夏休み明けに精神を病む
→迷った結果、小学校講師を辞める
→何も手つかずのまま、何をしていいかもわからず、「子どもたちを見捨てた」と塞ぎ込む
→当時の彼女(現妻)の家にいる両親のいない男児の面倒をみることを決断する
→血の繋がってない子どもの育児をする「仮のパパ」として日々のことを書くブログ開設
→迷いながらも、子どもに触れて、この先歩むべき道を自分の心に問いかける毎日←今ここ


小学校の先生を夢見て走り抜けた大学時代

私の母は小学校の先生である。幼少期からその後ろ姿を見てきて。子どもながらに、先生として勤めている母は素晴らしいと思っていた。
大学は22歳で入学。遅い入学の理由はお金の問題で、社会人を経験し、自分の貯金で教育学部に入学となった。座席はいつも一番前、わからないこと、疑問はすぐに教授に聞いていた。
いつしか真面目な人間として周りに印象づけられていたが、私は当たり前のことしかしていないと思っていた。
また、学生の頃から色々な小学校に、ボランティアや教師を育てるプロジェクトに参加し、小学生と触れ合う時間をたくさん作った。そのため、「教師になりたい」「子どもたちのために頑張りたい」と思いが強くなっていった。
あっという間に時は経ち、大学4年次。教員採用試験は・・・残念ながら不合格。だが、教諭ではなくとも、講師として県の教育委員会から採用してもらえた。
こうして大学を卒業した後、教師として働けることが確定した。ここまで何の迷いもなく、これから先、小学校の先生として働けるということしか頭になかった。


初めて受け持つ担任としての責任

勤め先の小学校までは電車を2本乗り継いで30分程。車は免許を持っていないので使えない。苦ではなかったし、電車で寝る方が良いとも思った。
学校の門をくぐり、今までのボランティアとは違う「担任」としての仕事に胸を膨らませて、校長先生から2学年の一クラスを受け持つことを知らされた。
先生としての仕事は子どもの勉強を教えるだけではなく、事務作業も意外と多い。詳しいことは省くが、子どもたちに会う前からやることがたくさんあった。
そして始業式、担任発表で喜んでくれた子どもたち。初めて知り合う男の人であるにも関わらず、何の迷いもなく喜んでくれた。
32人のクラスメイト。顔写真はないので出席番号順に名前を覚えて教室へ。
緊張しながら入ると、そこには楽しそうな面持ちの子どもたち。「よし!頑張るぞ!」教師として一番大事な業務が始まった。

学年は全部で4クラス。私以外はベテランの先生。「何かわからないことがあったら聞いてね」と女性の学年主任が優しく言ってくれた。新任でもベテランでも求められる指導力。それは経験でしか埋められないことを私はこの時、知る由もなかった。
授業一日目。事前に学年主任から聞いていた指導通りに進める。子どもたちも熱心に聞いてくれた。全ての授業が終わって子どもたちが帰ったあとは日誌を書く。のが普通だが、提出物チェックや明日の授業計画に必死で書けなかった。
毎日少しずつ溜まっていく「やること」。それはいつしか目に見えてわかる、新任の先生とベテランの先生との差となっていった。
日々やることに追われ、朝は5時に学校に着き、夜は10時に家に帰る、土曜日も学校に行き、日曜日は(本当はダメだが)家に持ち帰って仕事をしていた。他の先生からは「休みなさい」と言われていたが、「大丈夫です!」と元気なふりをして毎日を過ごした。この時に休む決断をしていたら・・・と今にして思う。
大きなミスをしてしまったのは、夏休みが近付いてきた頃。私のクラスは大幅に授業が遅れていて、本来定期的に行うテストが溜まってしまった。焦った私は、一気に消化しようと一日の授業全てをテストにしてしまった。もちろん、子どもたちの点数はボロボロ。他の先生に相談すると、「何故もっと早く言わなかった」「子どもたちがかわいそうだ」本当にそうだと思う。子どもたちに申し訳なかった。子どもたち、ごめんなさい。
そのまま憂鬱な気持ちで成績表作りが始まった。何度も何度も色んな先生に見てもらい、修正をして作り上げた。もちろん時間がかかった。成績をつける時期はいつもよりとても忙しい。寝る時間、休む時間がもっと短くなった。
目の下にはいつもクマが出来、寝てもすぐに目が覚めてしまう。体が悲鳴をあげていることに気づいてあげられなかった。

夏休み、一学期の振り返りと二学期の授業計画と事務作業。目が虚ろなのは周囲から言われていた。4月の元気さも失い、体重も減り、当時の彼女は心療内科を勧めてくれていた。だが、私は「大丈夫、まだ大丈夫」と言い聞かせていた。
結局、無理をしているのを自覚したまま夏休みが終わり、二学期がスタートした。
体の限界がついに訪れた。子どもを見た時、体が震えてしまった。冷や汗も出て、顔の筋肉は凍ってしまったように真顔のまま動かない。教頭(副校長)先生に「すいません、体調が悪いので帰りたいのですが・・・」と言うと、察したのか、校長室に通され、校長先生と3人で話をすることになった。「どうしたの?」と聞かれると、無意識にポロポロと涙が流れた。自分でもわからないくらいに泣いていた。そのまま精神科の病院に行くことになった。
病院に着いて、検査をする。診断は「うつ病」。それも入院してもおかしくない状態のようだった。
お医者さんから「このままの生活を続けるのは勧めない」と言われた。それは「先生という職業を辞める」という意味だった。
校長先生にこれからのことを相談に乗ってもらった。教師を続けるか、退職するか迷っていることを。
結局、今のまま教師生活を続けても精神疾患は良くならないと判断し、療養に専念するために退職することにした。周りの先生や子どもたちに迷惑かけてしまった。
という後悔を残して・・・


家に引きこもる日々から新たな生活へ

教師を辞めてから家に一日中過ごすことになった。貯金は少しあったが、家族に全て渡した。これから一切家にお金を入れられないからだ。
週に1回の通院、その他は家事をして過ごす。何をしていても「申し訳ない」の気持ちばかり。「自分は生きていていいのか?」と自問自答を繰り返す日々。

悶々とした日々に新たな道を示してくれたのは当時の彼女だった。彼女は私にこう言った。
「私の家に来ない?」
実家暮らしの彼女が、自分の家での生活を提案してくれた。それには理由があった。
「赤ちゃんの面倒を看てくれないか?」
・・・は?と、疑問が湧いた。もちろん私と彼女の間に子どもはいない、では誰の子だ?それは彼女の妹の子どもだった。つまり、私とは籍も血も繋がりもない子どもである。そして衝撃的なことを告げられた。
「お父さんはいないし、お母さん(彼女の妹)も家に帰ってこない」
日中、仕事やら学校やらで誰も赤ちゃんを看る人がいないため、私にやってもらいたいということだった。お給料は出ないが、食事や寝るところの提供をする。ということで「ベビーシッター(のようなもの)」が新しい私の職業となった。


決断したこれからの生活

新たな生活が始まり、初めて接する乳児。まだ小さくて守らないといけない。「子どもため」と働き過ぎて心を壊してしまった私が決断したこれからの生活。それは、
「目の前のこの子どもを立派に育て上げること。」
迷いがなくなったとはまだ言えない。児童たちを指導できなかった私に育児ができるのだろうか。この迷いはずっと消えないと思う。だが決断したこの生活が、胸を張って「よかった」と言えるように、仮パパとして生きていこう。



こうして、新たな生活を始め、日々の育児を書くブログを始めました。本当のパパではありませんが、ブログを見てくれる人に勇気と元気、たまに笑いをお届けできるように毎日更新していこうと思います。
ちなみに、この時の彼女は現在は私の妻となっています。こんな私でも必要としてくれる人がいる、それだけで気持ちが軽くなります。
ここまで長くなりましたが、読んで下さった方、ありがとうございました。今回は特別お題として書かせてもらいました。
私の話で、少しでも気が軽くなったり、共感してもらえたりしたら幸いです。
どうぞこれからも「仮パパ育日記」をよろしくお願いいたします。


#「迷い」と「決断」

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